フィリピン人と日本人


一年中暖かいというイメージが強いフィリピンですが、その程度こそあれ2月は寒く感じる事もあります。
日本人にとってしてみれば一番住みやすい時かも知れませんね。
しかし、いつまでたっても、フィリピン人の神経には驚かされます。
貧しいからなのか?
お金を持っている者から盗って当たり前、どうして悪いのか?と食って掛かる連中も多いですね。
「仕事が無いから働く事が出来ない、高血圧で医者から仕事をするなと言われている。」などと言い。
平気で、酒を喰らい、遊びまわっている。
仕事でも、契約期間があるものの全く無い訳ではない様に思えます。
良い訳上手、怠け者、嘘つき、そんなイメージが強く感じます。
日本人は「優しい」という定着されたイメージが強く、すぐ手を差し伸べてします。
これは、自分自身にも言える深く反省をしなければいけない部分だと思います。
騙されてつい手を差し伸べるから、それに甘える事が当たり前になっているのでしょう。
それでは、フィリピンの経済自体が良くなるわけが無いと思われても仕方が無い事ですね。
政府も警察も自分のポジションを利用して自分の懐を暖めていますから、底辺レベルの問題だけでは解決は不可能ですね。。

フィリピンの歴史7


フィリピン・ムスリム関係史
 
 フィリピンのイスラム教徒  フィリピンを植民地としたスペイン人は、フィリピンのイスラム教徒を「モロ」と蔑称して差別した。
「モロ」とは、8世紀にイベリア半島を征服した北アフリカのイスラム教徒ムーア人と同一視して呼んだ名称。その後フィリピンのイスラム教徒は「バンサモロ」といわれるようになった。

<イスラム教の伝来>  フィリピンにイスラム教が伝えられた時期ははっきりしないが、10世紀頃にはアラブ商人が来訪していたともいわれる。

 14世紀頃からイスラム教が浸透していったとみられ、14世紀末頃にスマトラからラジャ・バギンダがスルー諸島に来て原住民を支配していったとされ、15世紀中頃にジョホールからハシム・アブバカルが来てラジャ・バギンダの娘と結婚、スルタン(イスラム君主)としてフィリピンで最初のイスラム王国であるスルー王国をホロ島に建国した。
その後スルー王国はスルー諸島を中心に版図を拡大、18世紀頃にはバシラン島、タウイタウイ島、サンボアンガ半島、パラワン島、サバ(現マレーシア領)を領有していた。

 一方、16世紀初頭にはジョホールから来たシャリフ・カブンスワンがマギンダナオ族を征服、スルタンとなりミンダナオ島で初めてのイスラム王国をコタバトに建設した。
後にマギンダナオ族はマギンダナオ王国やブアヤン王国などとしてミンダナオ島のほぼ全域を支配する。

 政教一致のイスラム王国ではスルタンがすべてを統率、バランガイ(最小行政区)として現在に名残をとどめる村落はダトゥと呼ばれる首長が治めた。
スルタンの血統が途絶えた場合にはダトゥの中からスルタンが選ばれるという。

 インドネシアやマレーシアなどと同様、イスラム法の他に古くから口承で受け継がれてきたアダットと呼ばれる慣習法に従って村落社会が形成されていた。

  <抵抗の歴史>  スペイン人がフィリピン諸島に到達した頃にはミンダナオからビサヤ地方、ルソン島でもマニラ湾周辺までイスラムの勢力下にあった。

 1521年にマゼランがセブにやって来たとき、周辺の首長はこれに従いキリスト教を受け入れたが、セブの対岸にあるマクタン島の首長ラプラプはこれに抵抗、マゼラン隊はマクタン島に攻め入ったが撃退され、この際にマゼランは戦死した。

 マゼラン以降、スペインはメキシコから続々と遠征隊をフィリピンに送る。
1565年、レガスピ遠征隊はセブを征服、隣のボホール島でレガスピは地元の首長シカトゥナと互いの血を注いだカップを飲み分かち盟約を結んだ。
この「血盟」は、国民的画家ホアン・ルナの代表作にも描かれフィリピン人に幅広く知られる出来事だ。 1571年、レガスピはブルネイの影響下にあったマニラのラジャ・ソリマンを退け初代フィリピン総督となり、首都をマニラに定めた。

 その数年後、スペインはミンダナオ地方征服に乗り出すが、ミンダナオのイスラム教徒は激しく抵抗、逆にビサヤ地方を攻撃することもあった。
また、後には反目するもののスペインと敵対するオランダと同盟を結ぶなどしてスペインに対抗した。
こうしてスペインは結局イスラム教徒を完全に征服することはできなかった。

 ミンダナオのイスラム教徒はスペインからフィリピンの統治を譲り受けたアメリカに対しても抵抗、1899年の比米戦争勃発とほぼ同時にモロ・アメリカ戦争が始まる。
中でも女性や子供を含む600人が虐殺されたダホ山の戦い(ホロ島、1906年)は有名で、現在でもタウスグ族には強い反米感情が残っている。
1915年、スルー王国はアメリカと協定を結んでついにその支配下に下った。

 日本軍の占領時代、ミンダナオのイスラム教徒も抗日人民軍(フクバラハップ)と同様に日本軍に抵抗、「モロ大隊」と呼ばれ戦ったが、アメリカ極東軍は日本軍を駆逐した後に彼らがアメリカにも矛先を向けると確信、モロ大隊に武器を供給しなかったという。

  <イスラム教徒の現状>  1960年代の学生運動や共産主義運動の激化と時期を同じくしてミンダナオでもイスラム教徒に分離独立の気運が高まる。
キリスト教徒の入植による対立が激しくなる中で68年にコタバトのマタラム知事らイスラム教徒の政治家らがイスラム共和国建設を目指して「ミンダナオ独立運動(MIM)」を結成、翌年には多くの若者がマレーシアで軍事訓練を受けるようになったという。
この頃に「モロ民族解放戦線(MNLF)」が結成され、マレーシアで軍事訓練を受けた元フィリピン大学講師のヌル・ミスアリを議長に迎えた。

 イスラム教徒とキリスト教徒の対立が激化する中、ミンダナオへのキリスト教徒の入植を押し進めたマルコス大統領はついに72年、戒厳令を布告して独立運動を非合法化、武力鎮圧に打って出る。

 これを機にMNLFの存在が表面化、イスラム分離独立主義勢力はそれまでの局地的な反乱からバンサモロ軍を創設したMNLFに糾合、内戦状態に突入する。
戦闘は激化の一途をたどり、イスラム諸国の圧力もあって問題が国際化するとマルコスは自治権付与を決意。76年、フィリピン政府とMNLFは停戦に合意しトリポリ協定を結んだ。

 しかし、自治区設置に関する住民投票をめぐって再び対立、MNLFは投票をボイコット、和平への道は遠のいた。

 この頃からMNLF内部で路線の対立が表面化、77年にサラマット派がMNLFから離脱、84年に「モロ・イスラム解放戦線(MILF)」を正式に結成する。

 86年の革命後の新憲法にはイスラム教との自治に関する規定が盛り込まれ、アキノ政権の分離独立放棄を条件とした和平交渉の呼びかけにミスアリが応じ、89年には自治基本法が成立、同法をめぐって混乱したもののミンダナオの13州9市で住民投票が実施された。

 しかし、自治を受け入れたのはイスラム教徒が多数を占める4州(南ラナオ州、マギンダナオ州、スルー州、タウイタウイ州)だけで、これに対してMNLFはトリポリ協定による完全自治ではないと反発したものの、翌90年にムスリム・ミンダナオ自治区(ARMM)が正式に発足した。

 MNLFは戦闘を継続しつつ条件付きで和平交渉に応じる用意があるとしたが、政府側はこれを拒否、膠着状態に陥る。

 フィリピンの発展には外資の導入が不可欠だと考えるラモスが92年に大統領に就任すると、翌93年からジャカルタで本格和平交渉がスタート、暫定的な休戦協定が結ばれる。

 94年と95年に続いて96年の第4回和平交渉ではMNLF兵士の国軍編入問題や自治区に関する住民投票の実施、南部フィリピン平和開発評議会(SPCPD)設置などで最終的に合意、9月2日に和平協定が調印された。
なお、過去を含めた和平交渉にはイスラム諸国の尽力が特筆される。和平協定調印当日には日本政府も歓迎の意と支援の検討などを表明している。

 第4回和平交渉を前に政府側はミスアリ議長をARMMの知事選挙において与党候補として推すことで合意、7月の選挙を経て和平協定調印後にミスアリの当選が決まる。
また、ミスアリはSPCPDの議長にも就任した。

 01年の住民投票の結果、これまでの4州に加えバシラン州(イサベラ市を除く)とマラウイ市がARMMに編入された。

 しかし、ARMMの権益を一手に牛耳るミスアリをミンダナオ発展の最大の障害と考えるアロヨ政権はミスアリ外しを画策、MNLFフシン副議長を01年のARMM知事選挙で支持、武装蜂起に打って出たミスアリを反乱罪で起訴した。

 一方、MILFは開発プロジェクトへの攻撃など戦闘を継続する。
アロヨ政権で停戦協定が結ばれたが、戦闘が止む気配はない。

 また、90年代初頭からMNLFに不満を抱く離脱組がジャンジャラニのイスラム原理主義グループ「アブ・サヤフ・グループ(ASG)」に合流、外国人を含む人質誘拐および殺害などイスラム教徒からも非難を浴びており、政府は徹底的な掃討作戦を展開している。

 こうしたこれまでの紛争からミンダナオの開発は遅れ、イスラム教徒の居住地域は国内で最も貧しい地域のひとつとなっている。
世界銀行やアジア開発銀行などの国際金融機関、日本やアメリカなどの外国政府もミンダナオ開発に積極的だが、何よりも紛争解決が開発促進の重要条件とされる。

  <イスラム少数民族>  フィリピンのイスラム少数民族はマラナオ族、マギンダナオ族、イラヌン族、タウスグ族、ヤカン族、サマ族、サンギル族、カアガン族、コリブガン族、パラワン族、モルボグ族の11種族に分類され、この中でも最盛期にはミンダナオ島のほぼ全域を支配していたマギンダナオ族、ラナオ湖周辺のマラナオ族、スルー諸島のタウスグ族が特に有名。

 アメリカ統治時代からマルコス時代に至るまでキリスト教徒のミンダナオへの移住が盛んに行われた結果、イスラム教徒が多数を占めるのはスルー諸島とミンダナオ西部の一部だけとなった。

 イスラム教徒の人口はマニラ首都圏や他の地方のイスラム教徒も含めて276万9,643人と全人口の4.6%(1990年、国勢調査)に過ぎない。

 フィリピン人にとって「モロ・モロ」と「ジハード(聖戦)」がイスラム教を連想する最もポピュラーな言葉だといわれ、イスラム教徒とキリスト教徒の戦いの歴史を演じる「モロ・モロ」劇はルソン島でも人気の芝居だという。

フィリピンの歴史6

独立後のフィリピン

 フィリピンの独立は自ら勝ち取ったというより与えられたという面が強く、独立後もアメリカの強い影響下に置かれた。
ベル通商法ではアメリカ人の内国民待遇、28年間の特恵関税などが定められ、軍事的には47年の軍事基地協定(米軍の駐留)、軍事援助協定また51年の相互防衛条約が締結された。
エリートによる寡頭支配は存続し、政治、経済、社会の構造はアメリカの植民地時代と大きく変わることはなかった。

 日本の占領時にゲリラ活動をしていたフク団(フクバラハップ=抗日人民軍、後に人民解放軍)は共産党の指導のもと農地解放を要求するが、1946年の選挙で指導者タルクら2人が下院に当選したもののロハス政権に議席を剥奪されるとタルクは武力攻撃を仕掛ける。
1948年、クラーク基地で演説中に倒れたロハスの跡を継いで大統領になったキリノは、アメリカの反共政策にしたがって、マグサイサイを国防長官に据えフク団を鎮圧する。

 1947年の地方、上院選挙ではリベラル党が大勝するがこの時不正が横行し、1949年の大統領選挙に至っては、キリノ陣営の警察、私兵を動員した露骨な妨害、票の水増しなど腐敗は目に余るものであった。
こうしたことによる国民の不信から1951年の地方、上院選挙ではナショナリスタ党が勝利し、マグサイサイもキリノ派の不正を批判してナショナリスタ党へ移籍し、1953年の大統領選に出馬、勝利した。

 この頃から反米ナショナリズムが台頭し始め、レクト上院議員は親米マグサイサイを批判し、通商法や基地協定の改定を求めていく。
その勢いは次第に広がっていき1955年にはベル通商法が改正(ラウレル・ラングレー協定)され、翌年にはアメリカの意に反して日本と賠償協定を結び、1966年の基地貸与期間の短縮(ラモス・ラスク協定)につながっていく。
飛行機事故で死亡したマグサイサイの後を受けたガルシアはフィリピン人第一主義による保護主義政策をとったが貿易赤字が膨らみ、1961年の選挙ではリベラル党のマカパカルが大統領となり、農地改革や為替管理の自由化など自由化路線をとる。

 1950年代に勢いを失っていた大衆運動は60年代に入ってベトナム戦争を背景に学生運動が激化、反米デモを繰り返した。
その先頭に立った「民族主義青年同盟」を立ち上げたシソンは、1968年共産党を再建し、フク団の残党ダンテによって共産党の軍事部門である新人民軍(NPA)が創設された。
同年、ミンダナオのコタバトでイスラムの分離独立運動が起こり武力衝突に発展した。
後のマルコス大統領による戒厳令後にはミスワリのモロ民族解放戦線(MNLF)が運動の主導権をとり政府軍との間で内戦状態となる。

 1965年の選挙は、リベラル党の指名争いでマカパガルに敗れたマルコスがナショナリスタ党へ鞍替えし大統領となる。
マルコスはコメの自給や工業化の推進、インフラの整備で業績を残して1969年再選されるが、1935年憲法の大統領三選禁止条項を前に政権延命をはかり、1972年9月、戒厳令を布告。
議会を停止、反マルコス勢力を一斉に逮捕した。翌年1月には大統領制、議院内閣制の混成方式を採用した新憲法を公布した。

 1978年暫定国民議会選挙、1980年地方選挙、1981年戒厳令解除、大統領選挙と独裁政権のイメージを払拭しようとしたが、1979年の第2次石油危機に端を発する世界同時不況は、貿易赤字の拡大、債務負担の増大を招き、クローニーと呼ばれるマルコス、イメルダ一族とその取り巻きによる利権漁りなどで経済状況は悪化の一途をたどり、1983年マルコス最大の政敵、ベニグノ・アキノ元上院議員が帰国直後に空港で暗殺されるという事件を機に立場や階層を越えた広範な反マルコス運動が展開される。
追い込まれたマルコスは組織力と資金力、さらには野党の分裂に頼んで1986年2月に繰り上げ大統領選挙を行う事で生き残りをかけた。

 2月7日の選挙は集計を巡って大混乱となり、翌日にはアキノ元上院議員の未亡人であるコラソン・アキノが勝利宣言をするが15日、国民議会は与党単独でマルコスの当選を宣告。
しかし、カトリック司教会議は不服従を訴え、アキノも非暴力、非服従の運動を展開する。こうした中で22日午後、エンリレ国防相、ラモス参謀総長代行はマルコス辞任を訴え決起した。
その夜、シン枢機卿の呼び掛けで市民の人垣が反乱軍の基地を取り囲んで正規軍の攻撃から守った。
25日、アキノは大統領就任式を行う。
同日マルコスも官邸で就任式を行うが、正規軍の寝返りが続出する中、遂にアメリカに見限られハワイに亡命する事となった。いわゆる「二月革命」(ピープルパワー革命、EDSA革命)である。