日本の占領から独立まで
1941年12月8日、日米開戦と同時に日本軍はフィリピンに押し寄せてくる。当時フィリピン軍は同じ年の7月にアメリカ陸軍に統合されアメリカ極東軍(USAFFE)となっていた。
26日ダグラス・マッカーサーはマニラ無防備都市宣言を発し、コレヒドールへ後退。翌年1月2日、日本軍はマニラに無血入城し、翌3日に本間中将による軍政布告が出される。
2月にケソン、オスメーニャはコレヒドールを脱出し、オーストラリア経由でアメリカ本土に亡命、1942年5月に亡命政府を樹立、ケソンの死後はオスメーニャが大統領となる。
3月にマッカーサーはオーストラリアに逃れ、4月9日にバターンが陥落(バターン死の行進)。
5月6日にはコレヒドールが陥落、翌7日ウェイライト将軍がラジオで降伏宣言、これによりフィリピンでの組織的な抵抗は終わりを告げ、各地でゲリラ戦が展開される。
日本の軍政部は、マニラ市長のバルガスを委員長にフィリピン行政委員会を発足させ司法、行政にあたらせるが、各々の部署には日本人顧問が目を光らせていた。
1942年8月にはすべての政党を解散させカリバピ(新生比島奉仕団)を発足させる。
これは後の1944年5月に人民党に改組され、唯一の政党として日本に利用される。
1943年6月の帝国議会で、東條首相は年内のフィリピン独立を明言し、これを受けカリバピは日本の命令により独立準備委員会を設置し、ラウレル委員長のもと憲法を起草し(1935年の憲法と類似)、9月のカリバピ総会でこれを批准、同月選挙を行い、ラウレルが大統領に選ばれ10月4日第2次フィリピン共和国が発足する。しかし実質は軍政下と変わりはなかった。
戦前(フィリピン人の中で)、反米の民族主義者達はこれを駆逐せんが為に日本に期待を寄せた者もあったが、実際に日本の占領下では、それらの期待は裏切られることになる。
軍政の経済政策はことごとく失敗し、フィリピン人の生活は窮乏の一途をたどり、ゲリラ活動は益々激しくなる。
戦局は次第にアメリカに有利になり、1944年10月遂にマッカーサーはレイテに再上陸。
翌年2月マニラ入城を果たす。
1945年8月15日、戦争が終結すると、日本に亡命していたラウレルは17日に共和国を解散する。フィリピンでは9月3日に山下将軍が降伏。
オスメーニャはマッカーサーとともに帰還し、1944年10月にはタクロバンを臨時首都としてコモンウェルスを再開。
翌年2月にはコモンウェルスはマニラに帰ってくる。
1946年コモンウェルス最後の選挙が行われ、ナショナリスタ党から分裂したリベラル党のロハスが勝利、6月の議会でアメリカのフィリピン復興法・通商法(ベル通商法)が承認される。
タイディングス・マクダフィー法案で定められた期日の7月4日、ロハスは第1代大統領に就任、独立を宣言。フィリピン共和国が誕生した。
フィリピンの歴史4
アメリカの支配
1899年2月に米比戦争が勃発、3月31日には首都マロロスが陥落。
各地を転戦するアギナルドは11月、遂に正規軍を解散、以降ゲリラ戦を展開するが翌年アギナルドは逮捕され、アメリカに忠誠を誓いアメリカの主権を認めた。
1902年、ルーズヴェルト大統領は、フィリピン平定を宣言したが、その後も各地でゲリラ活動は続く。1915年、スルー王国は協定を結びアメリカの支配下に入る。
アメリカは、1899年に第1次フィリピン委員会を派遣、1900年の文官による第2次フィリピン委員会(タフト委員会)は立法権と行政権の一部を行使する権限を持ち、1901年にはタフトが初代民政総督に任命され、民政府が発足する。
「1902年フィリピン法案」が米議会で成立すると、アーサー・マッカーサー軍政長官にあった行政権も民政長官へ移り、国会の開設や米議会への代表派遣(2名、投票権無し)を約束した。
1907年、第1回総選挙が行われ、即時独立を求めるナショナリスタ党が勝利し、10月にフィリピン議会が発足する。
しかし、上院の役割を果たすフィリピン委員会との軋轢は激しく1911、2年には予算が成立しないという事態を招く。
1912年に米議会に提出された、将来の独立を視野に入れたフィリピン自治法であるジョーンズ法が、ケソン駐米比委員らの努力により1916年にようやく成立すると、国会はフィリピン人議員による二院制となり、選挙でナショナリスタ党が大勝し、上院議長ケソン、下院議長オスメーニャ(ナショナリスタ党首)となる。
フィリピン人に自治を与え独立を擁護するハリソン総督は、役人や委員会のフィリピン人化を進め民政をフィリピン人に委任するようになるが、自治化に反対するウッドが総督になると、彼は議会に対してたびたび拒否権を発動、対立が深まる。
1923年には、閣僚、国家評議会委員全員が辞任するという「内閣の危機」が起こる。しかし、1927年ウッドの死後、両者の関係は安定的になる。
フィリピン議会が発足する以前の1900~1905年の間、民族主義は弾圧され、米との連合を唱える親米のフェデラル党のみが認められていたが、1906年アイデ総督による、独立を綱領とする政党の禁止令が解除されると民族主義政党が多数結成され、それらが合同してナショナリスタ党となった。
またフェデラル党も改名し独立を綱領とする。
これらによりフィリピンは独立をアメリカに要求していくが、第1次大戦後はさらに活発になる。
これに対しアメリカの態度が独立容認に変わってくるのが1929年の大恐慌の頃である。米比間の経済関係は、関税の撤廃などにより緊密な関係にあったが、恐慌によって米国内業者の保護などが議論されるようなり、米議会は1933年に10年間の準備期間の後、独立を認めるというヘア・ホーズ・カッティング法案を可決する。
これはケソンの反対により比議会で否決されるが、ケソンは自らの手柄とするためアメリカに赴き、一部を修正したタイディングス・マクダフィー法案を持ち帰り、比議会はこれを受諾する。
これにより、憲法議会による憲法のもと10年間コモンウェルスを置き、1946年7月4日に独立を宣言して共和国とすると定められた。
1935年5月、新憲法が国民投票により批准され9月の総選挙にてケソンが大統領に選ばれコモンウェルスが発足した。この選挙では、21歳以上の読み書きのできるすべての男性に選挙権が与えられ、1937年からは女性にも参政権が与えられる。
アメリカは初め、プロパカンダ運動を主導した都市部のエリート知識人達を協力者としたが、結局革命戦争を主導した地方の地主エリート達との協力によってやっと安定的な支配が可能となった。
スペイン時代の大土地所有者は、アメリカ支配時代に益々その力を伸ばしていった。
一方、小作農や労働者達の貧困は解消されず、各地で農民、労働運動が激化し、共産主義が根付いていくこととなる。
1899年2月に米比戦争が勃発、3月31日には首都マロロスが陥落。
各地を転戦するアギナルドは11月、遂に正規軍を解散、以降ゲリラ戦を展開するが翌年アギナルドは逮捕され、アメリカに忠誠を誓いアメリカの主権を認めた。
1902年、ルーズヴェルト大統領は、フィリピン平定を宣言したが、その後も各地でゲリラ活動は続く。1915年、スルー王国は協定を結びアメリカの支配下に入る。
アメリカは、1899年に第1次フィリピン委員会を派遣、1900年の文官による第2次フィリピン委員会(タフト委員会)は立法権と行政権の一部を行使する権限を持ち、1901年にはタフトが初代民政総督に任命され、民政府が発足する。
「1902年フィリピン法案」が米議会で成立すると、アーサー・マッカーサー軍政長官にあった行政権も民政長官へ移り、国会の開設や米議会への代表派遣(2名、投票権無し)を約束した。
1907年、第1回総選挙が行われ、即時独立を求めるナショナリスタ党が勝利し、10月にフィリピン議会が発足する。
しかし、上院の役割を果たすフィリピン委員会との軋轢は激しく1911、2年には予算が成立しないという事態を招く。
1912年に米議会に提出された、将来の独立を視野に入れたフィリピン自治法であるジョーンズ法が、ケソン駐米比委員らの努力により1916年にようやく成立すると、国会はフィリピン人議員による二院制となり、選挙でナショナリスタ党が大勝し、上院議長ケソン、下院議長オスメーニャ(ナショナリスタ党首)となる。
フィリピン人に自治を与え独立を擁護するハリソン総督は、役人や委員会のフィリピン人化を進め民政をフィリピン人に委任するようになるが、自治化に反対するウッドが総督になると、彼は議会に対してたびたび拒否権を発動、対立が深まる。
1923年には、閣僚、国家評議会委員全員が辞任するという「内閣の危機」が起こる。しかし、1927年ウッドの死後、両者の関係は安定的になる。
フィリピン議会が発足する以前の1900~1905年の間、民族主義は弾圧され、米との連合を唱える親米のフェデラル党のみが認められていたが、1906年アイデ総督による、独立を綱領とする政党の禁止令が解除されると民族主義政党が多数結成され、それらが合同してナショナリスタ党となった。
またフェデラル党も改名し独立を綱領とする。
これらによりフィリピンは独立をアメリカに要求していくが、第1次大戦後はさらに活発になる。
これに対しアメリカの態度が独立容認に変わってくるのが1929年の大恐慌の頃である。米比間の経済関係は、関税の撤廃などにより緊密な関係にあったが、恐慌によって米国内業者の保護などが議論されるようなり、米議会は1933年に10年間の準備期間の後、独立を認めるというヘア・ホーズ・カッティング法案を可決する。
これはケソンの反対により比議会で否決されるが、ケソンは自らの手柄とするためアメリカに赴き、一部を修正したタイディングス・マクダフィー法案を持ち帰り、比議会はこれを受諾する。
これにより、憲法議会による憲法のもと10年間コモンウェルスを置き、1946年7月4日に独立を宣言して共和国とすると定められた。
1935年5月、新憲法が国民投票により批准され9月の総選挙にてケソンが大統領に選ばれコモンウェルスが発足した。この選挙では、21歳以上の読み書きのできるすべての男性に選挙権が与えられ、1937年からは女性にも参政権が与えられる。
アメリカは初め、プロパカンダ運動を主導した都市部のエリート知識人達を協力者としたが、結局革命戦争を主導した地方の地主エリート達との協力によってやっと安定的な支配が可能となった。
スペイン時代の大土地所有者は、アメリカ支配時代に益々その力を伸ばしていった。
一方、小作農や労働者達の貧困は解消されず、各地で農民、労働運動が激化し、共産主義が根付いていくこととなる。
フィリピンの歴史3
プロパカンダ運動から革命へ
1869年、スエズ運河が開通すると、スペイン人を初め多くの欧米人がフィリピンにやってくるようになるが、彼らは物だけではなく自由主義や啓蒙思想なども一緒に持ち込んだ。 スエズ運河開通の前年スペインでは革命が勃発。暫定共和国が成立しフィリピン総督に自由主義者のカルロス・マリア・デ・ラ・トレが人々の歓迎の中就任した。彼は、農民暴動を武力ではなく平和的に解決し、その他にも多くの業績を残すが、1870年本国で立憲君主制が復活し、それに伴ってフィリピンでも反動政権が誕生し、改革は水泡に帰した。 1872年、カビテの暴動に関連して無実のフィリピン人神父3人が処刑されるというゴンブルザ事件が起こる。政庁がフィリピン人神父や知識人に対する弾圧を強めていく中、身の危険を感じた知識人達は諸外国へ逃れ、平等、言論出版の自由、代表権の復活(19世紀前半の一時期フィリピンはスペイン議会に代表を送っていた)などを訴えていくようになる。しかし、この段階ではまだ独立という夢は持っていなかった。 プロパカンダ運動は、ホセ・リサールのフィリピンの修道会を批判する小説「ノリ・メ・タンヘル(我に触れるな)」の発表を機に大きく発展する。1889年にはスペインで「ラ・ソリダリダート(団結)」という機関誌を発刊し、民主的な権利を要求していく。しかしホセ・リサールは海外での運動に限界を感じ、1892年フィリピンに帰国。総督と会見し家族の釈放には成功するが、ボルネオ植民計画は却下される。彼は祖国救済のため団結することを唱って「フィリピン連合」を結成するが、4日後反逆罪で逮捕され流刑となる。一方、「ラ・ソリダリダート」も資金難などで行き詰まり1895年に廃刊となる。こうしてプロパカンダ運動は終焉を迎える。 ホセ・リサールが流刑となった同じ日、労働階級出身の知識人ボニファシオは秘密結社カティプナンを3人で結成する。これにより独立へ向けた武力革命が動き出す。そしてその計画が当局に露見する頃にはその勢力は10万を数えるほどになっていた。 1896年8月、その存在が明るみに出ると、ボニファシオはマニラ郊外のバリンタワクで武装蜂起を決行(バリンタワクの叫び)。これを契機にマニラ周辺地域で戦いが始まる。特にカビテではアギナルドの一団が目覚ましい活躍をする。しかし、次第に戦局は革命軍に不利となり、その年の12月にはリサールが処刑される。しかしこの処刑は人々の心に火をつけることとなり、革命はさらに拡大していく。そうした中で、アギナルドとボニファシオの主導権争いが起こり、作戦に失敗するボニファシオに対して、軍事的才能で人々のヒーローとなりつつあるアギナルドがボニファシオを処刑して主導権を握る。 1897年、アギナルドはビアクナバトにてスペイン軍と協定を結び、補償金の一部を手に香港に逃れる。しかしスペインは約束の補償金の一部しか支払わず、革命軍側も多くが武装解除に応じず、各地で反乱、虐殺が起こった。マカブロスは、ルソン中部に自ら臨時革命政府を打ち立て抵抗した。 1898年4月24日、米西戦争が勃発すると、翌25日には香港のデュイ准将にフィリピン攻撃命令が出され、アメリカはマニラ湾海戦で勝利し、陸軍を待つためマニラ湾を封鎖した。一方、スペイン側は内陸部へ逃げ込み、フィリピン人に対して懐柔策を行うが失敗。アギナルドは米側と接触、協力を約束し、武器を購入して米軍艦で帰国。多数のフィリピン人志願兵を得て6月にはカビテで独立を宣言する。同月下旬にはルソンのほぼすべてを掌握した。一方、アメリカは遠征隊の到着を待って8月にマニラを占領したが、フィリピン軍のマニラ入城を拒否したことにより米比間に亀裂が走る。 アギナルドの革命政府は9月にブラカンのマロロスで革命議会を開催し、翌1899年1月にマロロス憲法が公布され、第1次共和国が誕生した。 1898年12月、アメリカとスペインはパリ条約を締結、アメリカはスペインに2千万ドルを支払い、フィリピンをアメリカの領有とする。その際、マッキンレー大統領は軍政布告の中で友愛的同化を宣言し、できる限りの民主化を保証し、寛容な支配を標榜した。 しかし、アメリカ領有にフィリピン側は激しく抗議し、1899年2月、米比戦争が勃発する。
1869年、スエズ運河が開通すると、スペイン人を初め多くの欧米人がフィリピンにやってくるようになるが、彼らは物だけではなく自由主義や啓蒙思想なども一緒に持ち込んだ。 スエズ運河開通の前年スペインでは革命が勃発。暫定共和国が成立しフィリピン総督に自由主義者のカルロス・マリア・デ・ラ・トレが人々の歓迎の中就任した。彼は、農民暴動を武力ではなく平和的に解決し、その他にも多くの業績を残すが、1870年本国で立憲君主制が復活し、それに伴ってフィリピンでも反動政権が誕生し、改革は水泡に帰した。 1872年、カビテの暴動に関連して無実のフィリピン人神父3人が処刑されるというゴンブルザ事件が起こる。政庁がフィリピン人神父や知識人に対する弾圧を強めていく中、身の危険を感じた知識人達は諸外国へ逃れ、平等、言論出版の自由、代表権の復活(19世紀前半の一時期フィリピンはスペイン議会に代表を送っていた)などを訴えていくようになる。しかし、この段階ではまだ独立という夢は持っていなかった。 プロパカンダ運動は、ホセ・リサールのフィリピンの修道会を批判する小説「ノリ・メ・タンヘル(我に触れるな)」の発表を機に大きく発展する。1889年にはスペインで「ラ・ソリダリダート(団結)」という機関誌を発刊し、民主的な権利を要求していく。しかしホセ・リサールは海外での運動に限界を感じ、1892年フィリピンに帰国。総督と会見し家族の釈放には成功するが、ボルネオ植民計画は却下される。彼は祖国救済のため団結することを唱って「フィリピン連合」を結成するが、4日後反逆罪で逮捕され流刑となる。一方、「ラ・ソリダリダート」も資金難などで行き詰まり1895年に廃刊となる。こうしてプロパカンダ運動は終焉を迎える。 ホセ・リサールが流刑となった同じ日、労働階級出身の知識人ボニファシオは秘密結社カティプナンを3人で結成する。これにより独立へ向けた武力革命が動き出す。そしてその計画が当局に露見する頃にはその勢力は10万を数えるほどになっていた。 1896年8月、その存在が明るみに出ると、ボニファシオはマニラ郊外のバリンタワクで武装蜂起を決行(バリンタワクの叫び)。これを契機にマニラ周辺地域で戦いが始まる。特にカビテではアギナルドの一団が目覚ましい活躍をする。しかし、次第に戦局は革命軍に不利となり、その年の12月にはリサールが処刑される。しかしこの処刑は人々の心に火をつけることとなり、革命はさらに拡大していく。そうした中で、アギナルドとボニファシオの主導権争いが起こり、作戦に失敗するボニファシオに対して、軍事的才能で人々のヒーローとなりつつあるアギナルドがボニファシオを処刑して主導権を握る。 1897年、アギナルドはビアクナバトにてスペイン軍と協定を結び、補償金の一部を手に香港に逃れる。しかしスペインは約束の補償金の一部しか支払わず、革命軍側も多くが武装解除に応じず、各地で反乱、虐殺が起こった。マカブロスは、ルソン中部に自ら臨時革命政府を打ち立て抵抗した。 1898年4月24日、米西戦争が勃発すると、翌25日には香港のデュイ准将にフィリピン攻撃命令が出され、アメリカはマニラ湾海戦で勝利し、陸軍を待つためマニラ湾を封鎖した。一方、スペイン側は内陸部へ逃げ込み、フィリピン人に対して懐柔策を行うが失敗。アギナルドは米側と接触、協力を約束し、武器を購入して米軍艦で帰国。多数のフィリピン人志願兵を得て6月にはカビテで独立を宣言する。同月下旬にはルソンのほぼすべてを掌握した。一方、アメリカは遠征隊の到着を待って8月にマニラを占領したが、フィリピン軍のマニラ入城を拒否したことにより米比間に亀裂が走る。 アギナルドの革命政府は9月にブラカンのマロロスで革命議会を開催し、翌1899年1月にマロロス憲法が公布され、第1次共和国が誕生した。 1898年12月、アメリカとスペインはパリ条約を締結、アメリカはスペインに2千万ドルを支払い、フィリピンをアメリカの領有とする。その際、マッキンレー大統領は軍政布告の中で友愛的同化を宣言し、できる限りの民主化を保証し、寛容な支配を標榜した。 しかし、アメリカ領有にフィリピン側は激しく抗議し、1899年2月、米比戦争が勃発する。
フィリピンの歴史2
スペイン統治
フィリピンは、1821年のメキシコ独立までメキシコ副王領として統治され、その後本国の直轄地となり、1836年まではインド評議所、その後は植民省の所轄となる。
1584年に王立アウディエンシア(最高司法院)が開設されると、フィリピン総督がその長官を兼ね、最高権力者として強大な権力を行使することになる。
スペインは当初、エンコメンデーロと呼ばれる軍人達に地方を支配させるが、職権の乱用により各地で反乱が相次ぐ。
教会の訴えでスペイン国王は、悪徳エンコメンデーロの処罰などを命令するが無視される。
この制度は17~18世紀にかけ衰退していき19世紀初頭には完全に廃止される。
エンコメンデーロが徐々に廃止されていく中で地方行政は、アルカディア(州)を定め、知事として文官である行政官がその統治にあたり、未平定地域は軍管区に分割され軍政官が統治した。
そして地方が平定されるにしたがってアルカディアが増えていく。
それぞれの地方では、バランガイを基に村を作りそれをまとめて町とし、それらの町村長には首長層が就いた。
町村長は最初世襲制だったが後に選挙制となる。
また、町はカトリックの教区と重なり教会は行政に積極的に関与することになる。
フィリピン政庁の財源には徴税の他にガレオン貿易の関税収入とメキシコ政庁からの補助金がある。
ガレオン貿易は季節風を利用したマニラ・アカプルコ間の貿易で、1572年から始まりスペイン人がこれを独占した。
後に英、米の脅威の中で衰退し19世紀初めに廃止される。
この貿易に絡んで、フィリピンで中国人が活躍するが、スペインは彼らをたびたび弾圧する。
また、スペイン本国では、経済的な重荷でフィリピン放棄の提案が何度か出されるが、キリスト教伝道の使命をもってこれを却下する。
フィリピンは、イギリスやフランスなど諸外国の攻撃を受けるが、特にスペインから独立したオランダの攻撃は執拗で、1600年の第1回攻撃から、モロ族とのイスラム同盟後の反目によりホロ島を攻撃した1848年まで続く。
1756年に欧州で起こった7年戦争の際、イギリスは1762年スペインに宣戦布告し、東インド会社の軍がマニラを攻撃、占領したが、2年後に撤退する。
その後スペインはフィリピンの植民地経営の建て直しを迫られる。
イギリスのマニラ占領後4人目の総督となったホセ・デ・バスコは総合経済計画を発表、農業を振興し、1782年タバコの強制栽培、専売制度を行う。そして1785年に貿易の独占を目指して王立フィリピン会社を設立するが1834年にマニラが自由貿易港となり廃止される。
1809年にマニラに初めてイギリスの商館が設立され、その後50年間でイギリスを中心にアメリカ、フランス、スイス、ドイツの商館15が設立された。
英、米、仏、独など列強による世界経済の活発化によりフィリピンでは主要輸出品である農産物の需要が高まり、大規模農場経営が進みスペイン人以外にもスペイン人や華人と混血したフィリピン人(メスティーソ)による大土地所有が進む。
そうして資産家、知識人となった彼らは次第に民族主義に目覚めていく。
フィリピン人はスペイン統治時代を通じて各地で多くの反乱、暴動を起こすが、それらは多くの場合圧政に対する反動であり、統一的、民族的なものではなくスペインの支配に決定的なダメージを与えることはできなかった。
またフィリピン人だけでなく中国人も1603年の第1回を皮切りに1762年までに5回の反乱を起こしている。日本人による反乱も、1606年と翌年の2回ある。
フィリピンは、1821年のメキシコ独立までメキシコ副王領として統治され、その後本国の直轄地となり、1836年まではインド評議所、その後は植民省の所轄となる。
1584年に王立アウディエンシア(最高司法院)が開設されると、フィリピン総督がその長官を兼ね、最高権力者として強大な権力を行使することになる。
スペインは当初、エンコメンデーロと呼ばれる軍人達に地方を支配させるが、職権の乱用により各地で反乱が相次ぐ。
教会の訴えでスペイン国王は、悪徳エンコメンデーロの処罰などを命令するが無視される。
この制度は17~18世紀にかけ衰退していき19世紀初頭には完全に廃止される。
エンコメンデーロが徐々に廃止されていく中で地方行政は、アルカディア(州)を定め、知事として文官である行政官がその統治にあたり、未平定地域は軍管区に分割され軍政官が統治した。
そして地方が平定されるにしたがってアルカディアが増えていく。
それぞれの地方では、バランガイを基に村を作りそれをまとめて町とし、それらの町村長には首長層が就いた。
町村長は最初世襲制だったが後に選挙制となる。
また、町はカトリックの教区と重なり教会は行政に積極的に関与することになる。
フィリピン政庁の財源には徴税の他にガレオン貿易の関税収入とメキシコ政庁からの補助金がある。
ガレオン貿易は季節風を利用したマニラ・アカプルコ間の貿易で、1572年から始まりスペイン人がこれを独占した。
後に英、米の脅威の中で衰退し19世紀初めに廃止される。
この貿易に絡んで、フィリピンで中国人が活躍するが、スペインは彼らをたびたび弾圧する。
また、スペイン本国では、経済的な重荷でフィリピン放棄の提案が何度か出されるが、キリスト教伝道の使命をもってこれを却下する。
フィリピンは、イギリスやフランスなど諸外国の攻撃を受けるが、特にスペインから独立したオランダの攻撃は執拗で、1600年の第1回攻撃から、モロ族とのイスラム同盟後の反目によりホロ島を攻撃した1848年まで続く。
1756年に欧州で起こった7年戦争の際、イギリスは1762年スペインに宣戦布告し、東インド会社の軍がマニラを攻撃、占領したが、2年後に撤退する。
その後スペインはフィリピンの植民地経営の建て直しを迫られる。
イギリスのマニラ占領後4人目の総督となったホセ・デ・バスコは総合経済計画を発表、農業を振興し、1782年タバコの強制栽培、専売制度を行う。そして1785年に貿易の独占を目指して王立フィリピン会社を設立するが1834年にマニラが自由貿易港となり廃止される。
1809年にマニラに初めてイギリスの商館が設立され、その後50年間でイギリスを中心にアメリカ、フランス、スイス、ドイツの商館15が設立された。
英、米、仏、独など列強による世界経済の活発化によりフィリピンでは主要輸出品である農産物の需要が高まり、大規模農場経営が進みスペイン人以外にもスペイン人や華人と混血したフィリピン人(メスティーソ)による大土地所有が進む。
そうして資産家、知識人となった彼らは次第に民族主義に目覚めていく。
フィリピン人はスペイン統治時代を通じて各地で多くの反乱、暴動を起こすが、それらは多くの場合圧政に対する反動であり、統一的、民族的なものではなくスペインの支配に決定的なダメージを与えることはできなかった。
またフィリピン人だけでなく中国人も1603年の第1回を皮切りに1762年までに5回の反乱を起こしている。日本人による反乱も、1606年と翌年の2回ある。
フィリピンの歴史1
先史時代からスペイン来寇まで
大小7000余の島々からなるフィリピン諸島に最も古く移り住んできたのはネグリト族といわれる。
2万5千年から3万年ほど前にアジア南部からマレー半島を経て移住してきた。
その後、紀元前5千年もしくは1万年頃から中国南西部付近を源流とするマレー人が、新石器文化を伴ってフィリピンにも渡来してくる。
紀元前1500年頃から移住してきたイフガオやボントック族等は初期金属文化を持ち込み、紀元前500年頃から紀元後数世紀にかけてやってきたタガログ、イロカノ、パンパンガ族等やビサヤ諸島のセブアノ族など、現在のフィリピン人の大部分を占める人々の先祖のマレー人は鉄器などをもって移住してきた。
彼らは、30から100家族のバランガイといわれる集落を形成し、首長がそれを束ね自由人の他奴隷も存在したがその支配はゆるやかなものであった。
フィリピンでは、数多くの地方語があるが、使用される古代文字はバイバインというアルファベットの一つで、母音3、子音14の計17文字で構成される。
フィリピンにイスラム教が伝わったのは14世紀頃からだと考えられ、1390年頃にはスマトラのラジャ・バギンダがスルー諸島にやって来る。
1450年頃にはその跡を継いだハシム・アブバカルによってフィリピンで最初のイスラム王国であるスルー王国が成立する。
1475年頃にはジョホールからやって来たシャリフ・カブンスワンがミンダナオのコタバト地方を征服する。イスラム教はスペイン人がやって来る頃までにその勢力をマニラ湾まで伸ばしていた。
中国人との関係を見ると、2世紀頃にはフィリピンの存在は中国で知られており7世紀頃から移民が始まったとされ、10世紀頃には通商が確立されていた。
1372年に初めてフィリピンから朝貢使節が明に訪れ、1421年まで朝貢関係が続く。
マゼランがサマール島に上陸したのは1521年3月17日で、翌月の14日にはセブ島の数百人に洗礼を行うが、2週間後の27日にはマクタン島のラプラプ率いる原住民との戦闘中に殺される。
その後スペインは3度に渡ってメキシコより遠征隊を送るが、4度目のヴィラロボス探検隊にいたってようやくサマール、レイテ島に到達する。
その時、時のフェリペ皇太子にちなんで「フィリピン諸島」と命名される。
そして王となったフェリペ2世は1559年9月、メキシコ副王ヴィラスコにフィリピン征服と植民地化を命じ、この後メキシコ副王領としてのフィリピン征服事業が始まる。
1564年11月、レガスピの遠征隊がメキシコを出発して翌年4月にセブを制圧、1569年にはパナイを征服した。
1570年5月、レガスピはムスリム王ラジャ・ソリマンの支配するマニラに攻撃をかける。
そして翌年5月にはマニラを占領、レガスピは初代総督としてマニラを首都と決める。
その後約半世紀をかけてルソン島、ビサヤ諸島を平定することとなる。
スペインは1578年ホロ島を攻撃、イスラム教徒のモロ族征服を開始する。
1596年には初めてミンダナオ島を攻撃するが、モロ族も1599年ビサヤを攻撃し反撃する。
1637年にはコンクエラ総督がミンダナオ島、スルー諸島に遠征してスルタン・クダラットと激戦を展開する。
だが結局スペインは最後までムスリム系マレー人であるモロ族の支配するフィリピン南部を征服することは出来なかった。
大小7000余の島々からなるフィリピン諸島に最も古く移り住んできたのはネグリト族といわれる。
2万5千年から3万年ほど前にアジア南部からマレー半島を経て移住してきた。
その後、紀元前5千年もしくは1万年頃から中国南西部付近を源流とするマレー人が、新石器文化を伴ってフィリピンにも渡来してくる。
紀元前1500年頃から移住してきたイフガオやボントック族等は初期金属文化を持ち込み、紀元前500年頃から紀元後数世紀にかけてやってきたタガログ、イロカノ、パンパンガ族等やビサヤ諸島のセブアノ族など、現在のフィリピン人の大部分を占める人々の先祖のマレー人は鉄器などをもって移住してきた。
彼らは、30から100家族のバランガイといわれる集落を形成し、首長がそれを束ね自由人の他奴隷も存在したがその支配はゆるやかなものであった。
フィリピンでは、数多くの地方語があるが、使用される古代文字はバイバインというアルファベットの一つで、母音3、子音14の計17文字で構成される。
フィリピンにイスラム教が伝わったのは14世紀頃からだと考えられ、1390年頃にはスマトラのラジャ・バギンダがスルー諸島にやって来る。
1450年頃にはその跡を継いだハシム・アブバカルによってフィリピンで最初のイスラム王国であるスルー王国が成立する。
1475年頃にはジョホールからやって来たシャリフ・カブンスワンがミンダナオのコタバト地方を征服する。イスラム教はスペイン人がやって来る頃までにその勢力をマニラ湾まで伸ばしていた。
中国人との関係を見ると、2世紀頃にはフィリピンの存在は中国で知られており7世紀頃から移民が始まったとされ、10世紀頃には通商が確立されていた。
1372年に初めてフィリピンから朝貢使節が明に訪れ、1421年まで朝貢関係が続く。
マゼランがサマール島に上陸したのは1521年3月17日で、翌月の14日にはセブ島の数百人に洗礼を行うが、2週間後の27日にはマクタン島のラプラプ率いる原住民との戦闘中に殺される。
その後スペインは3度に渡ってメキシコより遠征隊を送るが、4度目のヴィラロボス探検隊にいたってようやくサマール、レイテ島に到達する。
その時、時のフェリペ皇太子にちなんで「フィリピン諸島」と命名される。
そして王となったフェリペ2世は1559年9月、メキシコ副王ヴィラスコにフィリピン征服と植民地化を命じ、この後メキシコ副王領としてのフィリピン征服事業が始まる。
1564年11月、レガスピの遠征隊がメキシコを出発して翌年4月にセブを制圧、1569年にはパナイを征服した。
1570年5月、レガスピはムスリム王ラジャ・ソリマンの支配するマニラに攻撃をかける。
そして翌年5月にはマニラを占領、レガスピは初代総督としてマニラを首都と決める。
その後約半世紀をかけてルソン島、ビサヤ諸島を平定することとなる。
スペインは1578年ホロ島を攻撃、イスラム教徒のモロ族征服を開始する。
1596年には初めてミンダナオ島を攻撃するが、モロ族も1599年ビサヤを攻撃し反撃する。
1637年にはコンクエラ総督がミンダナオ島、スルー諸島に遠征してスルタン・クダラットと激戦を展開する。
だが結局スペインは最後までムスリム系マレー人であるモロ族の支配するフィリピン南部を征服することは出来なかった。
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